木曜日の夜9時。アパートのダイニングテーブルで、ノートパソコンを開いている。画面には「オンライン心療内科」の予約ページ。スクロールして、戻って、また同じ画面に戻る。気づいたら40分経っていた。
「予約する」のボタンが、押せない。
これは、そのボタンを押すのに3日かかった私が、オンライン心療内科を初めて受診した日の記録。予約から診察終了まで、そのまま書く。
公式LINEでも制度まわりの情報を配信しているので、あわせてどうぞ。
最寄りの心療内科まで、車で1時間
東北地方の、人口5万人くらいの町に住んでいる。メーカーの営業事務、3年目。一人暮らし。
限界だ、と気づいたのは半年前。朝のメールチェックで手が震えるようになった。受発注のシステムを開くと頭が真っ白になる。昼休みにトイレの個室で額を壁に押しつけて、深呼吸して、戻って、「すみません、ちょっとお腹壊して」と笑って誤魔化す日が続いた。
心療内科に行かなきゃ、と思った。でも調べて絶望した。
県内の心療内科は、県庁所在地に集中している。一番近いクリニックまで車で1時間。初診の予約は2ヶ月待ち。平日しかやっていない。行くなら仕事を休まなきゃいけないし、小さい町だから、もし誰かに見られたらと思うと怖かった。
「精神科」と書かれた建物の駐車場に自分の車が停まっているところを、同僚に目撃される。その想像だけで手のひらが冷たくなった。
だから、半年間、何もしなかった。
予約ボタンを押すまでの3日間
「オンラインで心療内科を受診できるらしい」。きっかけは、スマホに流れてきた広告だった。最初は怪しいと思った。画面越しに診察なんて、ちゃんとした医療行為になるのか。
でもその夜、布団の中で検索してしまった。「オンライン 心療内科 大丈夫」「オンライン診療 ちゃんとした」——我ながら情けない検索ワード。
調べてみると、予約はWeb完結。診察もスマホかパソコンがあれば自宅でできる。電話をかけなくていい。外に出る必要もないし、知り合いに会う心配もゼロ。
初診料は3,000〜5,000円くらい。対面と大きくは変わらないらしい。
1日目。予約サイトを開いて、問診票の入力画面まで進んだ。「現在のお悩みを教えてください」という自由記述欄。手が止まる。自分の状態を文章にするという行為が、想像以上にしんどかった。「仕事がつらい」では足りない気がするし、かといって何をどこまで書けばいいのかわからない。閉じた。
2日目。問診票の続き。「つらい」「眠れない」「手が震える」。単語を並べるだけでいいことにした。完璧に書こうとするから止まる。2時間かけて、ようやく全部の欄を埋めた。
3日目の夜11時。「予約を確定する」。
指先がわずかに震えていた。画面が「予約が完了しました」に切り替わったとき、達成感よりも「もう引き返せない」という緊張のほうが大きかった。
当日の朝のこと
土曜日。予約は11時。目が覚めたのは7時だった。4時間もある。
まず部屋を片付け始めた。別に医師が家に来るわけじゃない。でもカメラに映るかもしれないから、テーブルの上の書類を端に寄せて、洗い物をして、ソファに散らかった服をクローゼットに押し込んだ。結局、映るのは自分の顔と壁だけだった。
着替えようとした。クローゼットを開けて、ニットに手を伸ばして、やめた。部屋着のままでいい。どこかのサイトにそう書いてあった。灰色のスウェット。パジャマみたいなやつ。せめて髪だけ結んだ。
10時45分。パソコンの前に座る。通信環境を確認する。カメラの角度を3回直した。画面に映る自分の顔。クマが濃い。頬がこけている。ここ半年で3キロ痩せた顔。
見慣れたはずの自分の部屋が、どこか違う場所のように感じた。今日ここが、診察室になる。
11時ちょうど。「まもなく接続します」の表示。心臓の音が、耳の奥で鳴っていた。
画面越しの15分間
医師の顔が映った。思ったより若い人だった。白衣は着ていない。オフィスのような明るい背景。
「はじめまして。問診票を拝見しました。少しお話を聞かせてくださいね」
落ち着いた声。待合室の緊張感がない。受付もない。番号札もない。目の前にいるのは、画面の中の一人だけ。
「いつ頃からつらいなと感じていますか?」
答えようとして、声が詰まった。口は開いたのに、言葉が出てこない。何秒か沈黙があった。恥ずかしかった。初っ端からこれか、と思った。
でも医師は急かさなかった。画面越しに小さく頷いて、こちらが話し出すのを待っている。
「……半年くらい、前からです」
ぽつぽつと話した。手が震えること。眠れない夜。昼休みのトイレ。言葉はうまくつながらなかったけど、医師は一つひとつ確認するように質問を重ねてくれた。「食欲はどうですか」「休日はどう過ごされていますか」「最近、楽しいと感じることはありましたか」。
最後の質問で、少し考え込んだ。何も浮かばない。半年前まではあったはずなのに。テレビを見て笑うとか、休日にカフェに行くとか、そういう普通のこと。今は布団の中でスマホを見ているか、天井を見ているか。その事実に、自分で驚いた。
15分くらいだったと思う。医師が最後に言った。
「一度しっかり診させてください。次回の予約を取りましょう。経過を見て、必要であれば診断書もお出しできます」
その一言で、喉の奥の力が抜けた。
パソコンを閉じた。ダイニングテーブルに突っ伏して、しばらくそのままでいた。泣いてはいなかったと思う。でも目頭が熱くて、スウェットの袖で何度か拭った。
部屋は静かだった。15分前と同じ部屋。同じテーブル。同じ灰色のスウェット。何も変わっていないのに、空気がほんの少し軽い。なんだろう、あの感覚。
対面だったら、たぶん言えなかった
実は3年前、一度だけ対面の心療内科に行こうとしたことがある。
県庁所在地のクリニック。有給を取って、車で1時間かけて行った。駐車場に車を停めて、入口のガラス越しに中が見えた。待合室に何人か座っている。受付の窓口が見える。
帰った。
理由は、自分でもうまく説明できない。誰かに見られている気がした。「あの人、精神科に来てるんだ」と思われる——そんなことは現実にはほぼない。待合室にいる人は全員、自分のことで精一杯。頭ではわかっている。でも足が前に出なかった。
駐車場で20分、エンジンをかけたまま座っていた。結局そのまま、1時間かけて帰った。あの日の有給は、ドライブに消えた。
オンラインには、あの「待合室」がなかった。
自分の部屋の、いつもの椅子に座っている。窓からは見慣れた駐車場と山が見えている。ここは安全な場所だとわかっている。だから「つらい」と言えたのだと思う。
もうひとつ。画面というフィルターが、ちょうどいい距離を作ってくれた。
対面だと、医師と同じ部屋にいる。視線が直接ぶつかる。沈黙の重さが空間に満ちる。それが私にはきつかった。画面越しだと、相手の目と自分の目のあいだに、一枚の境界がある。顔は見えるけど、同じ空間にはいない。あの微妙な距離が、言葉を外に出しやすくした。
不思議なもので、電話だと逆に無理だと思う。声だけだと、何を言えばいいか余計にわからなくなる。でもビデオ通話は、相手の表情も見える。頷いてくれているのがわかる。それでいて、同じ部屋にはいない。
3年前にあの駐車場から帰った自分に教えてあげたい。行かなくてよかった場所の代わりに、行ける場所があったよ、と。
受診のあとに残ったもの
オンラインで受診してから2週間後、再診を受けた。同じダイニングテーブル、同じスウェット。今度は声が詰まらなかった。
そのとき「適応障害」という言葉が出た。初診料と再診料を合わせて、ここまでの費用は7,000円ほど。診断書が必要なら作成できると言われた。発行に別途1,500〜3,000円程度かかるらしい。
たった15分の診察を2回。家から一歩も出ていない。それだけで「自分の状態に名前がついた」。正直、名前がついたからといって何かが解決するわけじゃない。でも、「気のせいかもしれない」とずっと自分を疑い続けていた半年間が、少し軽くなった。
オンライン診療の具体的な流れや事前準備については、オンライン診療で心療内科を受診してみたが詳しい。「そもそも心療内科が怖い」と感じている人は、心療内科に行くのが怖い人へも読んでみてほしい。対面での受診と比較したい場合は、心療内科に初めて行った体験談に別の視点がまとまっている。
自分の部屋が、診察室になった日
大きなことは、何も起きていない。
劇的な回復もないし、人生が変わった実感もまだない。ただ、「つらい」を誰かに言えた。自分の状態が医療の対象だとわかった。土曜日の朝、パジャマみたいなスウェットのまま、ダイニングテーブルでパソコンを開いた。それだけのこと。
でも、駐車場で引き返した3年前よりは、ずっとましな一歩だったと思う。
※この記事は2026年2月時点の情報に基づく個人の体験・見解であり、法的・医学的アドバイスではありません。
制度の詳細は厚生労働省・協会けんぽ・ハローワークの公式情報をご確認ください。
心身に不調を感じている方は、必ず医療機関にご相談ください。

