クリニックの自動ドアの前で、足が止まった。
ガラス越しに見える待合室。暖色の照明、観葉植物、小さな本棚。思い描いていた「精神科」とは違う。でも、そのギャップがかえって怖かった。ここに入ったら、自分が「患者」になる。その一線を越える覚悟が、まだなかった。
31歳、食品メーカーの品質管理。2ヶ月ほど眠れない夜が続いて、朝礼で立っていられなくなって、ようやくここまで来た。これは、私が初めて心療内科の扉を開けるまでの話。公式LINEでも制度まわりの情報を配信しているので、あわせてどうぞ。
「心療内科」を検索するのに2週間かかった
眠れなくなったのは、夏の終わりだった。
品質クレームの対応が立て込んで、毎晩23時過ぎまで残業する日々。帰ってシャワーを浴びて布団に入っても、目が冴えて天井を見つめるだけ。2時間おきに目が覚める。アラームが鳴る前に起き上がって、そのまま出勤。1ヶ月、それが続いた。
上司に「顔色やばいぞ。病院行けよ」と言われた。内科のことだと思った。血液検査でもすれば何かわかるだろう、と。
内科を受診して、採血も胃カメラもやった。結果は「異常なし」。先生に「よく眠れていますか?」と聞かれて、「まあ……」とだけ答えた。「心療内科も考えてみてください」。紹介状を書きましょうか、と言われたけど、首を横に振った。
心療内科。
その3文字をスマホで検索するまで、さらに2週間かかった。「心療内科 初めて」「心療内科 行くべきか」——打ち込んでは消して、打ち込んでは消して。検索履歴を誰かに見られたら、と思うと、それすら怖かった。
予約の電話、3日越し
近所の心療内科を3件リストアップした。Googleマップで口コミを読み、ホームページの写真を眺めて、「ここなら大丈夫そう」を探す。何が大丈夫なのか、自分でもわからないまま。
一番近いクリニックは電話予約だった。
1日目。番号をタップする直前で、画面を閉じた。
2日目。昼休み、トイレの個室で電話をかけようとした。隣に誰かが入ってきた音がして、そのままスマホをポケットにしまった。
3日目。仕事帰り、駅のホームのベンチに座って、やっとかけた。コール音が3回鳴る間、息を止めていた。
「はい、〇〇クリニックです」
「……あの、初めてなんですけど、予約を取りたくて」
声が掠れていたと思う。受付の人は慣れた口調で、名前、生年月日、簡単な症状を聞いてきた。「眠れないのと、あと……」。「あと」の先が出てこない。「大丈夫ですよ、先生にお話しいただければ」。その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
予約は5日後の水曜日、18時半。仕事終わりに行ける時間帯。手帳に書いて、スマホのカレンダーにも入れた。2回確認した。忘れたいのか、忘れたくないのか、自分でもよくわからなかった。
クリニックの前を3回通り過ぎた
予約当日。定時で切り上げて、最寄り駅からクリニックまで徒歩8分。Googleマップの青い点が目的地に近づいていく。
1回目。ビルの前を通り過ぎた。歩幅が変わらなかった、と思う。ただ足が止まらなかった。
2回目。エレベーターホールの前まで来て、引き返した。
3回目。立ち止まって、深呼吸して、エレベーターのボタンを押した。3階。ドアが開いて、廊下の奥に「心療内科」の看板が見えた瞬間、心臓が跳ねた。
自動ドアをくぐる。受付で名前を告げた。「問診票をご記入ください」とクリップボードを渡される。ボールペンを持って、椅子に座った。
「来院理由」の欄で手が止まった。
眠れない。朝起きられない。仕事中にぼんやりする。全部事実だけど、ここに書くと大げさに見える気がした。「この程度で来てすみません」と書きたくなった。書かなかったけど、ペンを握る指に力が入りすぎて、字がいつもより小さくなっていた。
結局、「不眠が続いている。仕事に支障が出ている」とだけ書いた。最低限。それが精いっぱいだった。
待合室の30分
待合室には、3人いた。
スーツ姿の男性がスマホを見ている。若い女性が文庫本を読んでいる。年配の方がぼんやり壁を見ている。みんな、普通だった。「普通」という感想を持つこと自体がおかしいのかもしれないけど、正直ほっとした。
BGMはピアノの曲。音量は空調の音に紛れるくらい。テレビの音も、呼び出しのアナウンスもない。静かだった。居心地が悪いかと思ったけど、不思議とそうでもなかった。
名前を呼ばれるまで30分。膝に置いた手を、何度も握って、開いて、また握った。
先生は、ただ聞いていた
診察室のドアを開ける。デスクの向こうに、50代くらいの男性の先生。
「はじめまして。どうぞ座ってください」
想像していた白衣ではなく、シャツにカーディガン。壁にはカレンダーと小さな植物。圧迫感のない、6畳くらいの部屋だった。
「どんなことで困っていますか?」
問診票に目を落としながら聞かれた。眠れないこと。仕事中に頭が霧がかかったようになること。朝ベッドから出るのに1時間かかること。話しながら、自分でも「こんなの、誰でもあるだろ」と思っていた。
でも、先生は遮らなかった。
「いつ頃からですか」「仕事で何か変化がありましたか」「食欲はどうですか」。淡々と、でも急かさずに聞いてくれる。沈黙が怖かった。けれど先生のほうから間を埋めることはなく、こちらが言葉を探す時間を、そのまま待ってくれた。
途中、「お仕事のこと、もう少し聞いてもいいですか」と言われた瞬間、喉が詰まった。泣きそうになったわけじゃない。ただ——誰かに「聞いていい?」と許可を求められたことが、これまでなかった。職場では聞かれる前に報告するもので、相手の都合はこっちが察するもので。どう反応すればいいのか、一瞬わからなくなった。
診察時間は20分くらい。最後に「まずは睡眠を整えましょう」と、睡眠導入剤を出してもらった。次の予約は2週間後。
「無理しないでくださいね」
その一言で、肩から何かが落ちた気がした。
帰り道に買った缶コーヒー
クリニックを出て、1階のコンビニで缶コーヒーを買った。甘いやつ。普段はブラックしか飲まないのに、なぜか手が伸びた。
近くのベンチに座って、一口飲んで、思った。
——なんだ、こんなもんか。
怖かった。2週間かけて検索して、3日かけて電話して、クリニックの前を3回通り過ぎた。それだけの助走が必要だった。でも終わってみると、「内科の問診と、そう変わらないな」というのが正直な感想だった。
もちろん、診察を受けたからといって何かが劇的に変わったわけじゃない。翌朝も眠れなかったし、仕事のストレスが消えたわけでもない。ただ、「あのビルの3階に、自分の話を聞いてくれる場所がある」。それを知っているだけで、少しだけ翌朝が違った。何がどう違うのかは、うまく言えない。強いて言えば、天井を見つめる時間が少し短くなった、くらい。
缶コーヒー、190円。心療内科の初診料、保険適用3割負担で約2,500円。薬代が1,000円ちょっと。合計4,000円弱。あの恐怖の対価としては、安いのか高いのか。たぶん、安い。2週間分の恐怖に比べたら。
あのとき知りたかったこと
振り返ると、受診前に知っておきたかった情報がいくつかある。
初診で何を聞かれるのか。事前にわかっていれば、もう少し落ち着いて答えられたかもしれない。メモを用意しておく方法も、あとから知った。心療内科の初診で聞かれることに、具体的な質問リストと準備のコツがまとまっている。あのときの自分に渡したい記事のひとつ。
そもそも「対面が無理」という状態なら、オンライン診療という選択肢もある。家から一歩も出ずに受診できることを、当時の自分は知らなかった。オンライン診療で心療内科を受診してみたも、読んでおいて損はないと思う。
そして、もし「心療内科が怖い」という気持ちがどうしても消えないなら——心療内科に行くのが怖い人へ。その怖さの正体を分解して書いた記事がある。
あの自動ドアの前にいるあなたへ
心療内科に初めて行くのは、怖い。
検索するだけで2週間。電話に3日。クリニックの前を3回素通り。それだけかかった人間が言うのだから、間違いない。
でも、扉の向こうは思っていたより静かで、思っていたより普通の場所だった。先生は「この程度で」とは言わなかったし、待合室の誰もこちらを見なかった。
あなたが今、あの自動ドアの前にいるなら。検索して、ここまで読んだ時点で、もう半分は来ている。
※この記事は2026年2月時点の情報に基づく個人の体験・見解であり、法的・医学的アドバイスではありません。
制度の詳細は厚生労働省・協会けんぽ・ハローワークの公式情報をご確認ください。
心身に不調を感じている方は、必ず医療機関にご相談ください。

